東京テレポートの駅前にある公衆トイレに入ろうとしたらトイレの前に浮き輪が落ちていた。
今日は一日暑かったため、既に夏を満喫している家族かカップルがいたのだろう。
ただ、あまりにも堂々とトイレの入り口を塞ぐように落ちているので、すごく下手な罠のようにも見えてくる。
そんなことを考えながら浮き輪をずっと見ていたら、だんだんとパイナップルの輪切りに見えてきた。
缶詰にたくさん入っているあれだ。冷やして食べるパイナップル缶はほんとに美味い。
さて、パイナップルの輪切りっぽいということを念頭に置いて、もう一度浮き輪を見てみよう。
よく見ると、
いやよく見なくても分かるくらいにびっしりとカットする前のパイナップルが描かれているではないか。
冒頭から、「浮き輪が落ちていた」と言っているが、実はこれは私の思い込みに過ぎないのではないだろうか。
触っていないし、匂いもしっかり嗅いではいないので、これがでかいパイナップルの輪切りである可能性を100%否定することは出来ない。
そう考えると放射状にはいっている線も、輪切りのパイナップルにあるそれと酷似している。
というわけで、ここでは「これがでかいパイナップルの輪切りである」という前提に立って話を進めていきたい。
そうなると話はさらにややこしくなる。
なんてったって、パイナップルの輪切りに切る前のパイナップルがたわわに実っているのである。パイナップルの植生を考えると「たわわに実る」ことはないと思うが、実際に私の前ではまさにたわわに実っている。
ここで考えられるのは、でかいパイナップルの輪切りから仮に実っているパイナップルを収穫し、輪切りにするとそこにもまたパイナップルが実っている可能性である。
マトリョーシカのように、どんどん小さなパイナップルが収穫出来るのだ。
これは絵の中にその絵が飾られていて、さらにその絵の中にまた絵が…
と入れ子仕様が永遠に続く有名なやつと同じだ。

こういう画像
ちなみにこういう視覚効果のことをドロステ効果という。
オランダのドロステ・ココアという商品のパッケージに使われた効果であったことから、こういう名前がついた。
でかいパイナップルの輪切りは実際に同じ画像が見えているわけではなく、その部分を想像で補わなければいけないことから、ドロステ効果の上位概念といったところだろうか。
それはつまりこのパイナップルが「自己言及」していることに他ならない。
パイナップルはパイナップルの存在を輪切り上で言及している狀態なのだ。
この自己言及を表す存在として古代から用いられてきたモチーフに「ウロボロス」がある。
自らの尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもので、
循環性、永続性、始原性、無限性などを表す存在である。
自分の尾を噛んで環になっているウロボロスだが、
ここで思い出されるのがパイナップルの輪切りである。
驚くほどビジュアルがそっくりだ。
ウロボロスは自らの尾をくわえることで、はじまりも終わりもない完全なものとしての象徴的意味を持っている。私が見つけたでかいパイナップルの輪切りにも「完全なもの」という象徴的意味を与えたい。
人間はいつかは死ぬ。つまり有限だ。時の流れが無限だとしたら人間の一生など僅かな限られた時間であり、今の人間が本物の永遠を手に入れることは出来ない。しかし手に入れられないからこそ、永遠や永続性は人間の憧れであり続ける。仮に人間が本物の永遠を手に入れた時、人類は破滅するか永遠を手放すかを選ぶことになるだろう。でかいパイナップルの輪切りが手に入れた永続性を人間は手にしてはならない。
そうはいっても、休みがもっとほしい。永遠にとは言わないが、浮き輪をつけて海で気ままに波に揺られるくらいの余暇をでかいパイナップルの輪切りが与えてはくれまいか。
そんなことを考える3連休の中日である。