民俗学から呪術廻戦を考える

先日、岩手県の遠野に行きまして、遠野市立博物館で開催されていた特別展「遠野物語と呪術」を見てきました。

これがなかなか面白く、みんなに教えたい!というわけで久しぶりにデイリーポータルで書かせてもらいました。もう旅行いった時だけ記事書く人と化している。。もっと書きたい。。。

「遠野物語と呪術」展から『呪術廻戦』を考える

https://dailyportalz.jp/kiji/tonomonogatari-to-jujutusu-ten

記事では呪術廻戦を見ていない人でも分かるように呪術廻戦要素はかなり抑えめにしたので、ここでもうちょっと踏み込んだ考察を書いていきたいと思います。

※以下、アニメ版『呪術廻戦』のネタバレを含むのでご注意ください

※私は漫画は読んでおらずアニメのみの履修です…ゆえに誤認してることあったらごめんなさい

釘崎野薔薇と呪術

記事でも触れていますが、『呪術廻戦』のなかでいちばん日本古来の呪術と関わりのある術を扱うのが釘崎野薔薇です。呪いと言われてまず最初に思い浮かぶものとしてワラ人形の右に出るものはないと言っていいですよね。

アニメ第1期 24話より

「共鳴り」という術式は対象から欠損した一部に人形を通して呪力を打ち込むことで、対象本体にダメージを与える技ですが、現実の世界でも、たとえば狩猟の際に獲物の足跡に槍を突き刺すと、その影響が獲物に及んで逃げ足が鈍るとする行為が実際に行われていたようです。

また、古来から呪術というのは基本的に神職や住職など宗教者によって行われてきたものですが、ワラ人形による丑の刻参りは宗教者でない一般人も相手を呪うために行っていた”民間”の呪術と言えます。

『呪術廻戦』でも多くの術師が名門の血筋を引いていますが、釘崎は術師の家計ではあるものの、名門というわけではなく、岩手県の田舎出身です。つまり「土着の呪術師」である釘崎が「民間の呪術」を使うというのは非常に理にかなっていて、民俗学的観点からみてもちゃんと考えられているな~と思うわけです。釘崎が赤血操術とか使っちゃダメだ。

そう考えると、「田舎が嫌で東京に住みたかったから」という釘崎の呪術高専に入った理由も、一見そんなこと?と思いがちですが、”普通の呪術師”である釘崎らしい理由です。何かと血筋のしがらみがややこしい登場人物の多い『呪術廻戦』において、釘崎野薔薇は血筋とか考えて生きていない”普通の読者”と作品をつなぐ存在なのかもしれません。

アニメ第1期 3話より

普通の我々は釘崎のように「自分が自分であるために」生きていきたいものですね!

個人的な呪いが妖怪化する世界

これも記事で軽く触れましたが、『呪術廻戦0』についても詳しく書いていきたいと思います。

映画のラストで呪詛師である夏油とどうみてもシンジな乙骨憂太との戦いが描かれますが、決戦で夏油は特級仮想怨霊である化身玉藻前と「呪霊操術極ノ番・うずまき」を発動させます。

劇場版『呪術廻戦0』より

乙骨に憑いている特級過呪怨霊の祈本里香と「うずまき」がぶつかり合うわけですが、隣にいる化身玉藻前はマジで空気と化していて、夏油なんで召喚したん?とみんな感じていると思います。

化身玉藻前の元ネタは平安時代末期に鳥羽上皇の寵姫であったとされる伝説上の人物、玉藻前です。正体は妖狐、いわゆる化け狐でポピュラーな妖怪でもあります。美女に化けて鳥羽上皇をたぶらかしたと言われていますが、映画に出てくる化身玉藻前は美女とは言い難いですね…

正体を見破られた後は下野国那須野原で殺生石という有毒な火山ガスを噴出する石になったと伝えられています。

民俗学に詳しい文筆家の畑中章宏氏は『21世紀の民俗学』という本の中でこのように書いています。

(前略)さまよえる「霊魂」が集合性を帯び、公共化されたものが妖怪であるとわたしは考える。妖怪は特定の個人や家族を越えて、人びとを「もやもや」させるために生まれてくるのである。日常と非日常のあいだに開いた落とし穴に人びとを連れ込み、恐怖と滑稽の感情を人びとに抱かせるために現れるのだ。そうした状況が社会に必要になったとき、妖怪は登場するのである。

この考えに沿うならば、玉藻前は有毒なガスを発生させる殺生石の恐ろしさに理由を求めたことで登場した妖怪と言えそうです。

『呪術廻戦』のなかでも特級仮想怨霊は多くの人に抱いかれている共通の恐怖のイメージ、実在しないものが具現化した呪霊の一種と説明されています。多くの人が恐れているのでその分、呪力が強く、特級として登録されているというわけです。畑中氏の言葉を借りるのならば公共化されたが故の強さというわけです。

一方で、乙骨に憑いている特級過呪怨霊の祈本里香は二人の間の愛という言うなれば超個人的な呪いです。つまり、このシーンは公共化された特級呪霊と属人的な特級呪霊の戦いとみることが出来るわけです。

劇場版『呪術廻戦0』より

夏油が引き連れている漏瑚や花御も大地や森といった人類の多くが畏怖の念を感じている自然そのもの=公共化された恐怖から生まれた特級呪霊であり、そのパワーは強力です。

そのように公共化された特級呪霊がめちゃくちゃ強い世界観におけるこの戦いというのはすごく印象的で、この対比を生むために化身玉藻前が召喚されたと考えれば、空気と化していた彼女の存在も納得できるでしょう。

しかも美女に化けて人間をだましていた妖怪と純愛の祈本里香との戦いで、純愛に手も足も出なかったわけですから、「何も爪痕を残せなかった」ということがむしろ意味を持ってきます。それだけ真の愛は強いんだぞ!というわけです。

で、記事の最後にも書いたように、公共化された恐怖に個人的な愛が勝つというのは、現代の認識の変化を表しているとも言えるのではないでしょうか。現代は多様性の社会で世間的な共通認識が薄れる一方、SNSなどの普及で個人的な怨念が世間に対して訴える力というのは確実に強くなっていると思います。2016年に流行語大賞のトップテンにも選ばれた「保育園落ちた日本死ね!!!」なんてまさに個人的な「呪い」が発端となって公共化していった典型的な例だと言えます。

映画の展開としては大きな組織や大義に小さいものが挑んで勝つというのはどの作品でもよくある話なので、さすがにこれは考えすぎかもしれませんが、「呪い」というのは過去やフィクションの産物ではなく、現代社会でも簡単に発生しうるものであり、個人的なものだからと侮ると痛い目にあうという教訓を読み取ってもバチは当たらないのではないでしょうか。

遠野と渋谷と民俗学

最後は夏油が呪詛師となってしまう経緯を描いた玉折編です。

夏油が呪霊を退治しに向かった村では、災いの元がとある双子の姉妹(枷場美々子/菜々子)だと信じられており、夏油が災いのもとを退治したと言っても村の人々はその双子が原因だと言って聞きません。

アニメ第2期 29話より

災いをもたらす小さな女の子といえば、思い出すのはザシキワラシですが、『遠野物語』の第18章にはこのようなお話が残されています。

ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場とめばの橋のほとりにて見馴みなれざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来きたる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸きのこの毒に中あたりて一日のうちに死に絶たえ、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近きころ病やみて失せたり。

簡単にまとめると、

山口孫左衛門という村で一番の長者の家には女の子二人の神さま(ザシキワラシ)がいると伝えられていたが、ある日とある男が見慣れない女の子二人に出会ったのでどこから来たか聞くと、山口孫左衛門のところから来たという。でもこれから別な村の豪農のところへ行くというので、もう孫左衛門も終わりだなと思っていると、それからしばらくしてこの家の主人や下働きの者たち20人以上が毒キノコに当たって死んでしまった。そのままこの家は荒れ果ててしまった。

というお話です。

災いをもたらす二人の女の子!まさに『呪術廻戦』のこの双子姉妹のことではないでしょうか。

村の雰囲気も遠野っぽいといえばそう見えるような…
ほら、遠野市外をちょっと引きで見たときの感じが村の形とリンクしていて…

アニメ第2期 29話より

遠野市外を遠目から見た地図

さすがこれは無理があるかもしれません(笑) が、双子姉妹のザシキワラシオマージュについては間違いないと思います。ここが一番ダイレクトにオマージュを感じた部分で遠野物語ファンとしては一番の興奮ポイントでした。

そう考えるとこの時村人たちが双子姉妹を大切に扱っていればこの村の悲劇は起こることなく恵まれた未来が待っていたでしょうし、夏油も道を踏み外すことはなかったかもしれず、残念でなりません。(まぁでも夏油は仮にここでなかったとしても、別などこかで理由をつけて道を踏み外していたと思いますが。)

そして、ここからは完全に私の勝手な空想ですが、自然との距離が近く不可解なものに対する畏怖の念をベースとした旧来の呪い(=『遠野物語』に描かれる不思議な出来事や力)の聖地である遠野に対して、それと対比される現代の呪いの聖地として渋谷が舞台に選ばれているのではないでしょうか。

アニメ第2期 31話より

まず、渋谷はご存じの通り谷底が起点となる街です。谷底にある渋谷駅を降りて、宮益坂や道玄坂、公園通りといった坂を上って山の上の目的地を目指す渋谷という街は、普段は平地の里に住み狩りや祈りなどの目的のために山に入る遠野(をはじめとする古来の日本の農村)の生活とリンクします。

そして、先ほど書いた『呪術廻戦0』の話の通り、公共化された畏怖の念から個人的な想いが呪いの中心となりつつある現代において、多種多様な人々が集う渋谷はありとあらゆる個人の念の宝庫と言って差し支えないでしょう。ユーチューバーが街頭インタビューで個人の念にずかずかと踏み込んで問題を起こすのもだいたい渋谷です。

最近はIT企業の本社も集積しテクノロジーの最先端を生み出す街でもあり、個人の念を増幅させるSNSなどのテクノロジーとの親和性も渋谷が選ばれたポイントとして見ることが出来そうです。

こう考えると渋谷という街の呪いとの親和性が俄然、浮き彫りになってくるのではないでしょうか。

渋谷はもう何年も外国人観光客の定番の観光スポットとなっています。つまり渋谷が「日本の風景」として外国の皆さんから認められているということです。「渋谷事変」が”令和版『遠野物語』”として読み継がれる未来があるかもしれません。


以上、勝手な考察でした。あっている、あってないではなく、民俗学という視点を持つことで作品理解に深みが出てめちゃくちゃ面白いですね。呪術廻戦ファンというより民俗学ファンによる考察だと思ってもらえると幸いです。

それではまた!

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