『天気の子』から見る「次世代の宮崎駿」としての新海誠の覚悟と聖地としての「田端」

遅ればせながら『天気の子』を見た。

新海誠監督の前作『君の名は。』がすごすぎて今作はそこまで目立ってないように見えるが、着実に興行収入を伸ばしている。現時点ではアラジン実写版が今年No.1の興行収入だが、まぁこのままいけば追い抜いてNo.1になりそうな雰囲気だ。

相変わらずのセカイ系作品だが、時系列は綺麗に一直線なので『君の名は。』と比べるとかなり分かりやすく、変に頭を使うことなく作品に入り込めたと思う。

でも最後のあたり、あれって『千と千尋の神隠し』じゃないか?

※以下かなりネタバレ含みますのでこれから見ようとしてる方はご注意を※

選ばれるべくして選ばれた田端

冒頭で投げかけといてなんだが、千と千尋の話を書く前に地形好きとしてヒロインの天野陽菜が住んでいる「田端」の話をしたい。

田端駅。正直言って山手線の駅の中でもかなり地味な部類に入るだろう。なぜ数ある土地の中から田端を舞台に選んだのだろうか。

あくまで想像だが、それは映画のラストシーンのためだと思う。

100%の晴れ女である天野陽菜が人柱となることを主人公の森嶋帆高が食い止めたおかげ(せい?)で東京には3年以上も雨が降り続け、映画のラストでは東京の下町の大部分が海に沈んでいる。

田端駅の北側も完全に水没してしまっているが、このレベルにまで水が達するのは今から6,000年前のいわゆる縄文海進以来である。

引用元:https://news.yahoo.co.jp/byline/hashimotojunji/20181024-00101608/

縄文海進とは縄文前期に進んだ温暖化により海面が現在よりも3~4m上昇した現象を差す。上図は縄文海進時の海岸線だ。

映画の中でも「江戸時代にはどうたらこうたら」みたいなセリフが出てきた気がするが、そんなレベルではなく縄文時代までさかのぼってしまっている。さすがセカイ系の寵児、スケールがでかい。

んで「水没した街に向かって祈る陽菜を見つけて駆け寄る帆高」というラストシーンを踏まえると田端という立地が選ばれた理由が推測できる。順を追って考えていこう。

①帆高が保護観察処分を受け地元に戻っている間に、僅かな期間とはいえ晴れ女として小銭を稼いでいた陽菜の家が水没してしまうのは味気なさすぎるので、そうなると少なくとも3年経った海進後にもちゃんと陸地として残っている場所が候補になる

②陸地ならどこでもいいわけではなく、ラストシーンではやっぱりこう水没してしまった街に向かって祈っていた方が巫女っぽさがある。となると縄文海進の時の海岸線沿いが綺麗なカットになりそうだ。

③新海監督といえば新宿とか代々木とかあの辺りがお決まりの場所として登場する。今回も代々木の廃ビルが聖地として出てきたし、新海作品の象徴として描きたいという気持ちがあるのだろう。

廃ビルの立地に引っ張られるかたちではあるものの、陽菜がバイトしていたのもお母さんが入院していたのもその周辺なのでそこからあまり遠い場所に住んでいるのも変だ。一本で通えるくらいが自然な距離感なので、②の海岸線沿いということと併せて考えると山手線沿いがベターな選択肢となる。

以上の理由から候補地としては「山手線沿いの縄文海進時の海岸線(陸側)」ということになり、だいぶ範囲が限られる。

④先ほどの地図で田端駅がどの辺かと言うと東京という文字のすぐ上のあたりに点線が4本集まっているところだ。今でも実際に歩いてみるとわかるが山手線の上野駅から田端駅までは崖が連なり高低差がはっきりと現れている。またその崖に沿って電車が走り、台地と下町の高低差がよく分かる。

⑤高低差があるということは坂が生まれる。ラストシーンでは坂の上で祈る陽菜の姿を帆高が見つけるが、陽菜が平坦な道の先ではなく高い場所にいることで「神に近い存在」であることが上手く暗示されている。「いい感じの坂」は必要不可欠だ。

きっと新海監督は映画を作るにあたり、そんな考えに基づいて山手線が通る海岸線沿いをロケハンしたはずだ。その結果、一番うってつけの場所が田端だった。つまり田端がラストシーンを最も効果的に魅せられる地形だったのだ。

ってなことをエンドロールを見ながら考えていた。脳内ブラタモリ。でも『君の名は。』でも糸守町はめちゃくちゃ特徴的な地形だったし、新海監督はけっこう地形にこだわっていると思うのだが、どうだろうか。

『千と千尋の神隠し』っぽいシーンに秘められた覚悟

すいません前置きが長くなりましたが、こっからが本題。

姿を消した陽菜を助けるべく帆高は廃ビルの屋上の鳥居をくぐって陽菜の元へ向かう。陽菜を見つけた帆高は手を伸ばして陽菜の手を取り、二人は手を繋ぎあって人間の住む世界へ戻ってくるわけだが、このシーンがどう見ても『千と千尋の神隠し』のあのシーンだ。

あのシーンとは、龍の姿のハクが銭婆の元から千を湯屋に連れて帰る際、ハクの本名を思い出した千の一言でハクは人の姿に戻り二人は手を繋ぎあって空から降りてくる、あのシーンである。

問題のシーンのジグソーパズルも売られていた 出典:www.amazon.co.jp

陽菜は年齢だけじゃなくて名前まで偽っていて「私の本当の名は…」とか言い出すんじゃないかとヒヤヒヤしたぞ。横に天気を操る龍いたしな、あいつハクか?

それに思い返してみると序盤で帆高と夏美さんが占い師に晴れ女について聞きに行った時、占い師が「神隠し」という言葉を使っていたような。。

まぁ描写がたまたま似てしまうというのはよくある話なのかもしれない。しかし『君の名は。』が唯一興行収入で及ばなかった映画が『千と千尋の神隠し』という事実を鑑みるとどうだろう。これ完全に新海監督、千と千尋を意識してるよね?

別にこれをパクリだ!と糾弾したいわけではない。

個人的にはこれは新海監督の「次の宮崎駿は俺だ宣言」じゃないかと思っている。

日本のアニメ映画業界から一人誰かを挙げるとしたら多くの人は宮崎駿をあげるだろう。実際に興行収入の面から見ても上位は宮崎駿監督作品ばかりだ。

しかし宮崎駿もとりあえず引退中(またどうせ長編映画つくるでしょ?)である。宮崎駿の次はこの人だと皆が口を揃えて言う人物も今のところいない。その中で新海監督が『君の名は。』で歴代興行収入の2位という大記録を打ち立てた。新海監督は一気に日本のアニメ映画界を担う存在となったのだ。

そんな超話題作から3年、『君の名は。』の時とは全く違う環境での封切りにプレッシャーは凄まじいものがあっただろう。しかし同時に新海監督は覚悟も出来ていた。

アニメ映画の第一人者として、次世代の宮崎駿としてやっていくんだという覚悟があのシーンを生んだ。『君の名は。』が唯一記録を破れなかった『千と千尋の神隠し』を乗り越えていくんだという新海監督の気概があのシーンを生んだのだ。

俺は『天気の子』を見てそう感じた。


そう考えるとこうも思えてくる。

新宿方面から山手線で田端へ向かうと、駒込駅を過ぎて田端駅の手前で大きくカーブするあたりが切り通しのようになっている。切り通しを抜けると崖の下に広がる低地が一気に目に入るのだが、それはどこかトンネルを抜けた時の感覚とも近い。

そういえば千と千尋でも千尋の家族はトンネルを抜けて八百万の神々の世界へと迷い込んだ。

陽菜が神隠しにあった田端。陽菜が祈りを捧げる田端。切り通しという名のトンネルを抜けた先に広がる田端は、千と千尋の湯屋同様に神々の世界との接合点であり、文字通りの「聖地」としても相応しい場所だったのかもしれない。

新海監督が宮崎駿を超える存在となるのか、今後の作品からも目が離せない。

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