元少年A 『絶歌』を読んで

2015年6月11日に発売された『絶歌』は世間の大きな話題になっている。

読むべきではない、いや読む価値がある、そもそも買ってはいけない!など様々な意見があるが、ネットに溢れかえる言論の数々を見ているうちにいったいどんな本なのか、僕も気になり結局買ってしまった。

まず、本を買ったことで出版元である太田出版や加害者を支持することになるので、買うべきではないという意見があるが、それに関しては正直罪悪感を感じるところがある。太田出版が事件の遺族に報告なくこの本を出版したことは許されないと思う。そんな出版社から発売されている本を買うことに躊躇いはあったのだが、本を読むためには本を買うことが最も一般的で現実的な手段であり、その「お手軽さ」と罪悪感を天秤にかけた時、僕は購入を選んでしまった。その点で遺族には申し訳なさを感じる部分があるが、それは個人の倫理観と、酒鬼薔薇事件との距離感によるものであるから、これ以上何も言うことはないだろう。

ここまで書いた『絶歌』を「買うこと」はそれを「読むこと」とは全く話が違う。本を読むことに関しては誰が何を読んでも自由であるし、罪悪感を感じる必要もないと思う。読みたくない人は読まなくていいし、読みたい人は読めばいい。これも個人の倫理観に基づいた問題なのでとやかく言う必要はない。さっきから倫理観と言っているので、少し僕のバックグラウンドを説明しておくと、神戸連続児童殺傷事件が発生したのは僕がまだ小学生に上がる前で、事件に関する当時の記憶はない。もちろん、その後似たような事件が起こった時に取り上げられるこの事件のことを知ってはいるし、事件の概要について検索をしてみたこともある。ただ、詳しく調べたことはないし、特に強い興味を持ったこともない。事件に対する僕の認識はその程度であることを知って読んでほしい。

さて、いよいよ本の内容についてだが、この本は第一部が事件の前から逮捕までの心境、第二部が出所後の心境という二部構成になっている。

まず、これはいろんな人が言っているが、この本から元少年Aの反省は感じられない。全編にわたってそうだが、特に第一部では当時の心境が過度に美化された、迂遠な表現を多用している。必要以上の比喩表現やレトリックは文章を詩的に、美しくする一方で、病的な自己陶酔っぷりを露呈している。やたらと完成度の高い「中二病」といった感じだ。第二部では遺族への謝罪や自らをむしばむ罪の意識について書いているが、最後まで読むと結局は自分を自分で保つためにこの本を書かざるを得なかったと書いている。さらに元少年Aはこの本の中で、人間は誰でも欲求を満たすために生きていると書いており、それに倣うならば、この本も元少年Aの欲求を満たすための道具でしかないのだろう。そういう意味でも太田出版は発売前に遺族にこの本の出版について何かしらのアプローチを行って然るべきだったと思う。

しかし、私はこの本に、(遺憾ではあるが、)考えるきっかけを与えられてしまった。

元少年Aは出所してから普通の人間として社会で暮らすために、仕事をし、お金を稼ぎ、一般的に考えれば僅かではあるが人と交流する。その中で自分が生きている意味、自分の心について深く深く考えることになる。それはおそらく普通の人には出来ないレベルの内省だ。刑務所時代も含め、元少年Aには考える時間が多すぎるほど存在した。それこそが犯罪者に一生課せられた罰なのだろう。だが、どんな人にとっても生きる意味は存在する。それについて考えるとき、元少年Aほどに苦しむことはないだろうが、多少なりとも不安や罪の意識を感じる人はたくさんいるのではないだろうか。生きる意味を考えるということは、これまでの自分と正面から向き合うことであり、過去の失敗や小さな罪とも向き合うことになるからだ。そして現代人は、忙しさや楽しさを言い訳にして生きる意味を考えることから逃げている、或いは忘れている。それは私も例外ではない。日々の暮らしの中では目の前の仕事やプライベートにばかり意識がいってしまい、生きる意味や人のありがたさについて真剣に考える機会はない。大げさな言い方になるが、この本で元少年Aから「あなたの生きる意味はなんですか」と問い掛けられているような気がした。もちろん、彼のようにそれについて考える責任も義務も僕たちにはない。しかし、自分に正面から向き合って生きる意味を考えることは、それが彼に「生きがい(=罪を負いつづけること)」を見つけさせたように、僕たちにもプラスに働くはずだ。目の前の何かを言い訳にせず、きちんと自分を見つめることが必要だと、私はこの本を読んで感じてしまった。

この本の価値は「元少年Aの反省が伝わる」とか「犯罪者の心理が分かる」とかそういうところにあるわけではない。生きる意味を考える機会を与えられたという意味で、私はこの本には価値があると私は思う。

「反省」や「資料」としての価値を見出そうとすると、元少年Aがこの本で語っている内容はすべて本心であると仮定しなければならない。そして、その仮定は極めて根拠に乏しいものである。こんなにも自己陶酔した文章を書く人物が、重大な事件を起こした人物が、全幅の信頼を寄せられる人間だとは簡単に受け入れられない。さらには、著者の元少年Aは本当に神戸連続児童殺傷事件を起こした本人なのか怪しいという話もあり、そうなるとノンフィクションという前提まで覆ってしまう。しかし、著者が本物の犯人か、書いていることが本当なのか嘘なのか、ということを抜きにしても、私はこの本を読んで生きる意味を考えさせられてしまった。だから、この本がもし完全な「小説」だったとしても、私はこの本の価値を見出すことができるのだ。

僕は『絶歌』に一つの価値を見出したが、この本を誰かに薦めることはしない。反対に不買を訴えることもしない。これは最初に書いた、個人の倫理観と事件に対する距離感の違いで感じ方が大きく異なると思うからだ。それは他の本や映画、どんな作品についても多かれ少なかれ同じことが言えるが、この本は実際に二人の子どもが亡くなっている事件について書かれたものなのだから、それが何倍もシビアな問題になってくる。面白い推理小説やためになる啓発本なら、読書が嫌いな人にも薦めたくなることがあるが、この本に関しては読みたい人は読めばいいし、読みたくない人は読まなくていい。

そもそも、こんなに話題になってしまったことが問題ではないのだろうか。静かに書店に並べられ、読みたい人に買われればそれでよかった。それでたくさん売れたとしても何の問題もない。問題は、発売されたことを大々的に報じたメディアではないのか。さらに反対派が不買!販売中止!と騒ぎ立て、それに呼応するように意外と良い本!読むべき!という賛成派が現れた。こういった議論が話題になり、さらに興味を持つ人が広がっていく。それこそ元少年Aが望んだことであり、遺族を悲しませる行為ではないだろうか。最近たびたび遺族の人権が問題になっているが、根本的な問題は解決できていない。メディアは情報を伝えることが仕事であり、それに乗っ取って報じただけだと言わればそれまでだが、これからは「伝えない力」も身に着けていく必要がありそうだ。

偉そうに「伝えない力」と書きながら、ネットにこんな感想を書いている時点で僕もメディアの一員になってしまっている。影響力は皆無に等しいが反省はしなくてはいけない。ただ、実際のところ、人は議論が好きだ。議論によって文明は築かれ、文化は作られてきた。議論し、国をつくり、法をつくったのは人だ。そして被害者も、加害者も、それぞれの家族もみんな「人」だ。元少年Aという「人」を知るための資料として価値のあるものとするために、本物の元少年Aが書いたという証拠が出てくることを期待したい。

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