M1グランプリ2019はミルクボーイが優勝を果たした。
1本目の「コーンフレーク」でこれぞ漫才という圧巻の芸を見せつけ、2本目では1本目と全く同じフォーマットを使った「最中」を披露し見事優勝した。
この戦いを見て思うのは、笑いと法則性の関係の深さである。
笑いとは何かを考えるときに僕がいつも思い出すのが、無駄知識を紹介する番組「トリビアの泉」の視聴者から寄せられた調べればトリビアになりそうなことを調査するコーナー「トリビアの種」のとある回だ。
その回で寄せられたトリビアの種は「笑いの専門家が考える一番面白くないギャグはなに?」というもので、番組では社会学や動物学など様々な側面から笑いについて考えている学者が集まり侃侃諤諤と長い議論を重ねて答えを導き出した。
そこで導き出された答えは「成立しているダジャレを3連発した後に『このセメント、セメント』と言う」である。
字面では全く意味が分からないが、つまりは次もダジャレなんじゃないかと思われる流れで全くダジャレではないものが出てくるとそれだけで不安な気持ちになり笑えない、ということらしい。以下、少し長いが教授たちのコメントとして別サイトにまとめられていた内容を引用する。
ダジャレと言うのは笑いの中で一番低次元なもので、あまりおかしみは喚起されませんが、ダジャレが繰り返されることによって法則性が生じ、見る者にも笑いに至る思考回路が形成されます。法則性が生じるには最低3回の繰り返しが必要で、法則性が確立されると次に来るものが予期されるようになりますが、その流れの中で予期を外した「ダジャレになっていないもの」がくると、観客は笑えるかもしれないという予期・予測を裏切られて大きな不安に陥ります。笑いの基本である予期からのズレ下がりとはまったく別の方向に向かうことになり、日常性とは全くの異次元である「不条理の世界」に突き落とされてしまいます。そのため、観客は笑えなくなり、その結果とても面白くない状況が成立する、ということです。
このトリビアの種から専門家が笑いの要素として「法則性」を重視していることが分かる。たとえそれが理論上のものだとしても専門家の意見として表明されているものが参照できるというのは意味があるだろう。
そしてこの要素の大切さが如実に現れていたのが今回のM1だったと思う。
ミルクボーイのネタは感動してしまうくらい美しくフォーマットに落とし込まれている。放送後にTwitter上ではミルクボーイのネタのフォーマットに沿っていろいろなものに対して肯定と否定をするネタツイートも多く見られた。
フォーマットとはつまり法則性だ。法則があるから安心して見ることができるし、次はこれが出てくるぞ…というワクワク感が醸成される。確かにミルクボーイの2本目の後半では「最中やろ」と「最中じゃないやろ」を待っていた自分がいた。
多くの芸人は自分たち独自のフォーマットを持っている。かまいたちは山内が変な言いがかりを最後まで貫くスタイルが極まっているし、ぺこぱもキャラがぶれぶれと言われつつもM1の舞台ではノリ突っ込まないスタイルがきっちりはまっていた。
しかしフォーマットの完成度という意味ではミルクボーイが圧倒的だったように思う。1本目の「コーンフレーク」と2本目の「最中」でほとんど変わりのないフォーマットを用いていたことがそれを物語っていた。
1本目のネタの後にナイツの塙が誰がやっても面白い部分にさらにミルクボーイがやるから面白い部分が上乗せされていると評していたが、まさにミルクボーイは他のどの芸人よりも誰がやっても面白い部分の完成度が素晴らしかった。
さらに審査員の立場になって考えるとこの誰がやっても面白い部分が良くできているコンビの方が評価しやすいのではないだろうか。笑いのツボは人それぞれなので評価もどうしても個人的な主観が入ってしまう。そんな中でなるべく公平に評価することを心がけると、必然的に誰がやっても面白い部分、つまりネタの内容の完成度、そしてその大方を決める要素であるフォーマットの完成度を評価せざるを得ないだろう。
ミルクボーイのフォーマットはシンプルで気をてらったものではない。だからこそ完成度の高さがよく分かるし、ネタの作り手でもある審査員にしてみればその凄さがより良くわかったのだと思う。
と、それっぽく笑いを分析してみたが結局は笑いなんて感性なので自分が好きな笑いを見つけられればそれでよいのだ。
というわけで個人的にはミルクボーイのネタよりも今年の検索ちゃんネタ祭りのオードリーのネタが好きなので見ていってください。
バーイ(春日の締め方)