眠れない時にヒツジを数えるという習慣がある。
本当に眠れるのかは別として、寝れないとやることもないしちょっくら数えてみるかという軽い気持ちでやったことのある人も多いだろう。単調なイメージが繰り返されると脳が退屈さを覚えて眠くなるということでまぁ一応の効果はあるようだ。
なぜヒツジを数えるのを調べてみると、この習慣はイギリス生まれで、眠れなかった人が自分に向かって「sleep sleep(眠れ、眠れ)」とつぶやいていたのがだんだんと「sheep(ヒツジ)」に変化していったという説が有力らしい。
つまりヒツジと日本語に訳してしまってはもはや眠り(sleep)には何の関係もなくなってしまうわけで、日本人がヒツジを数えなければいけない所以は全くないのだが、お得意の長い物には巻かれろ精神でヒツジを数え続ける人は多い。
かくいう私も年に1回くらいはヒツジを数えてみるのだが、それで眠れたことはない。どんどんカウント数が増えていき、150匹を超えたあたりで声に出さずともカウントするのが面倒になりやめてしまう。結局寝れないので、後には意味もなく柵を跳ばされた報われないヒツジたちが残るばかりである。
「残るばかり」と書いたが、私の脳内では数えられたヒツジは柵を越えてある一定の範囲内に溜まっていくイメージだ。
いわばヒツジを囲いの中にどんどんと入れていく羊飼いの目線である。
このようなイメージなのでヒツジを数え終わった後にはかなりの数のヒツジの群れができている。夢の中とはいえ、自分が眠るためだけにこんなに集めてしまってすみません、という気持ちになる。
それにどうしても「100匹だとこのくらいの群れだな」などと数え終わったヒツジたちを意識してしまい、ヒツジを数えることに集中できないのでこのイメージは眠るのにはあまり向いていない。
私のイメージでは溜まっていくが、逆のパターンもあり得るだろう。
こちらはどこかに溜められたヒツジを解放していくイメージのため、先ほどのイメージに比べて数えたヒツジのことを気にしなくて済むかもしれない。
ただ自由になったヒツジたちの行く末を考え始めてしまうと、こちらはヒツジ1匹1匹がそれぞれ別の物語を紡ぎ始める恐れがあるので大変なことになってしまう。想像力が豊かな人はこのイメージは避けた方がよいだろう。
という話を妻にした。妻もヒツジを数えることがあるというので、数えられたヒツジたちはどうなるイメージなのか聞いてみた。
妻曰く「溜まらないし、溜まっていない」とのことだ。
どういうことか詳しく聞いてみるとヒツジは1匹しか出てこず、その1匹のヒツジが延々と柵を越え続けるという。
鬼畜の所業である。終わりの見えぬ柵越えを延々と繰り返させられているのだ。アンドロイドが夢に見る電気羊だって弱音をあげるだろう。
人道的にはどうかと思うが、「ただ1匹のヒツジを数え続ける行為」に集中するという意味ではこのイメージが一番眠るには適している。1匹のヒツジの尊い犠牲が我々を眠りへと誘ってくれるのだ。
どのパターンも一長一短があるが、そもそもこういうことを考え始めてしまうと一向に眠りにつけないので気を付けよう。